幻想(短編小説)

「相沢さん、どうだい。もう日本はいいんじゃないのかい」

平田先生は静かにはそう言った。

私にはどういう意味かわからなかった。

「必ずしも日本で生きていかなければならない理由なんてないよね。どこで生きようと自由だと思うんだ。相沢さんは自分を責めているみたいだけど、相沢さんはただ単に現在の日本社会にあわなかっただけなんだよ。高級フランス料理を食べても、人によってはまずく感じることもある。だけどきったないラーメン屋さんでもおいしいと思う人はたくさんいるんだよ。人それぞれさ。相沢さんは単にあわなかっただけなんだよ」

「あわなかっただけ・・・、日本に」

私は頭の中で反唱した。

「あわなかっただけって、先生、そんな簡単なことでいいんですか」

「いいんだよ」

「でも、そんなことでよかったら、今まで私が正しいと思っていた日本の常識って何ですか」

「幻想だよ」

「げ、幻想・・・」

私はつぶやいた。

「私が信じていた社会って幻想だったんですか」

「そうだよ」

平田先生は続けて言った。

「何が正しいかなんて誰にもわからないさ。社会っていうのはね。強い奴がつくっていくんだよ。強い奴らが、自分たちの都合のいいように社会っていうものを構築していく。『勝てば官軍』って言葉あるよね。あれはね。間違っていようと悪いことをしていようと、勝ってしまえば正しいことなんだと正当化してしまう意味があるんだよ。つまり権力が正義になってしまうんだ。権力が常識をつくるんだよ」

平田先生は私の目を見ながら話を続けた。

「法律っていうのはどこでつくるんだい」

「こ、国会・・・」

私は恐る恐る答えた。

「そう、国会だね。政治家が多数決の原理で法律をつくっていく。でもさ、少数派の意見が反映されない社会にも問題があるよね。相沢さんはいわゆる社会における少数派の人間だ。不安定な働き方しか選択することができず、会社も解雇され生活保護を受けている。世間では生活保護を受けている人に対する偏見の目が強いよね。相沢さん自身も自責の念でいっぱいだね。税金で生かされている自分は世間に迷惑をかけていると思っている。そんなことないんだよ。『自己責任』という権力者にとって都合のいい言葉で、社会的弱者がますます差別されているだけなんだ。人間の持つ嫌悪感という感情を極みに利用した政治的トリックなんだ。努力が足りないとか、甘えているとか言って世間の人は差別を正当化するしているだけなんだ。果たして今の日本社会で努力が報われるのかな。構造的に無理なんじゃないのかな」

「構造的に無理なんですか?」

「プレカリアートとよばれる不安定な労働者はどう頑張っても、安い賃金で働かされるし、不景気になったら簡単に解雇されちゃうからね。本来これらは法律違反なんだよ。だけど、労働基準監督署がきちんと取り締まらない。人出が足りなとか言っているけど、実際は黙認ですましてる。だから企業にとっては都合のいい労働力になっちゃうね。日本の労働者の約4割がプレカリアートと呼ばれる派遣社員・契約社員・パート・アルバイトなどの不安定労働者なんだよ。年収200万円以下の人たちが1100万人以上存在するんだ。現在日本の豊かさっていうのはね。こういった立場の弱い人達の『生きづらさ』で成り立っているんだよ」

「でも先生、正社員の人達は努力しているんじゃないですか」

「そう努力しているね。会社から物凄いプレッシャーをうけながら働いている。3日間徹夜で仕事している人なんかも大勢いいるよ。相沢さんと同じ、そういった頑張り屋さんが精神疾患をわずらって『うつ病』や『統合失調症』とかになって、この病院にやってくるのさ。行き過ぎた競争社会の弊害さ」

「誰も救われませんね」

「そうだね。日本全体が沈んでいっている。今、日本の借金は1000兆円に達している。近い将来日本の財政は破綻してしまうんじゃないかと言われているよ」

「破綻ですか?日本が破綻しちゃうんですか?破綻したらどうなるんですか?」

「わからない。どうなるんだろうね。きっといいことは何もないと思うよ」

私は絶句した。

何も知らなかった。今、日本全体で起きている危機に全く無知だった。自分のことだけで精いっぱいだった・・・。

平田先生は私を見つめ直した。

「相沢さん、どうだい。もう日本はいいんじゃないのかい」

私は混乱してしまいボーとしてしまった。

「俺の中学校時代のサッカー部の友達がね。シンガポールで寿司屋をやっているんだ。高校卒業した後、寿司屋で修行していたんだけど回転寿司店の低価格競争に勝てなくてね。店が潰れちゃったんだ。日本じゃ自分みたいな寿司職人は生きていけないとかいって、しばらく落ち込んでいたんだけど、旅行に行ったときとても楽しかったなんていう適当な理由で、シンガポールで店を出したんだよ。今、世界中で日本食ブームらしくて、カウンター越しで握る従来のジャパニーズスタイルがうけているみたい。二店舗目を出したいからいい人がいたら紹介してくれって言われているんだ。シンガポールは世界中から観光客がくるから繁盛しているらしいよ。相沢さんがよかったらだけど」

「私、女ですけど、いいんですか」

「はははー、問題ないよ。相沢さんだったら逆に喜ぶよ」

「私なんかじゃ迷惑かけちゃうんじゃないですか。お友達にも平田先生にも」

「迷惑かけちゃいなよ。いいじゃないの」

平田先生は笑っていた。

私の目から今まで流してきた冷たい涙とは違い、とてもとても温かい嬉しい涙がこぼれ落ちていた。



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