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「僕」と「いじめ問題」


僕は小学生の時、とても傲慢だった自覚があります。

僕らの時代は、「勉強」でも「スポーツ」でも【気合】と【根性】というものが尊重され、追い立てられた児童達は「勝たなければならないレース」に無意識に参加させられていました。

常に勝利を求められました。

何事も「競争」で、それらに勝利した人間には【ステイタス】が与えられました。

生活態度から何から「評価の対象」となり、単なるレースの勝者に【権威】などという「くだらないもの」が与えられる愚かな時代でした。

そうした【ステイタス】や【権威】は、学校内での友達関係にまで大きな影響を与えていたように感じます。

 

僕はとても傲慢でした。

僕は自己中心的で周囲との調和といものを考えていませんでした。

常に僕の意見が正しいと思っていました。

周囲の人間は僕を恐れていたと思います。

同調圧力というもので、僕に意見する者はいませんでした。

 

僕は愚かな小学生でした。

今考えると、とても恥ずかしいです。

きっと僕の立ち振る舞いで「傷ついた友達」がたくさんいたと思います。

自覚がないところが、その【悪質さ】のタチの悪いところです。

 

今、思うことは僕の愚かな行動で「傷ついた友達」に謝りたいということです。

いくら小学生であろうと恥ずかしい。

そんな思いでいっぱいです。

夢でうなされることもあります。

人の気持ちを考えることのできなかった愚かさ。

自分さえ良ければいいんだという自己中心的な思考。

今でも【自己嫌悪】と【自責の念】でいっぱいです。

 

【いじめを苦にした自殺】などのニュースを見るたびに、胸が締め付けられます。

自殺した生徒たちの気持ちはどんなものであったのだろうか。

どんな苦しみを味わったのだとうか。

助けてやる方法はなかったのかと。

 

いじめに関するニュースをみると、僕は【悔しさ】と共に【自責の念】が心にあふれます。

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